トーク「自然は可能か?」Part 2
アートプロジェクト「続・代替屋」を企画したアーティストの柴田祐輔さんとToken Art Centerが1月31日、歴史家・藤原辰史さんを...
記事を読むアーティストの柴田祐輔とToken Art Centerは、私たちの「食」のあり方をテーマにしたプロジェクト「続・代替屋」を展開しています。昨年は渋谷エリアで昆虫や雑草を採取し、食べてみるというワークショップを開催しました。2025年最初のイベントはトーク「自然は可能か?」です。「食」をめぐって多彩な研究を続ける歴史家・藤原辰史さんをオンラインでゲストに迎え、「食のテクノロジー」をひもときながら、現代の「食」について考えました。Part1では藤原さんによる基調講演の内容を紹介します。
私はいま京都におります。京都は伝統野菜が有名で、いろいろな種子を保存しながらグローバルに展開しています。また、京都の食文化の中から「和食」が登場してきました。京都や日本の自然に根差した素晴らしい食文化だ、という議論がなされますが、私は天邪鬼な人間なので「和食ってなんだろう」と考えてしまいます。例えば、京料理の出汁を取る昆布はどこから来ているのか。近世に北海道から北前船で運ばれてきたものです。北海道は当時、蝦夷地です。アイヌの人々との交易で得たものを「和食」に取り込んでいるのです。食の歴史を研究していると、私たちにとって心地よい定義が揺らいでいくことが多々あります。
まず、なぜこんなことを考えるのかを自己紹介を兼ねてお話します。私は実家が島根県奥出雲です。田舎者だった私は、都会の快適でテクノロジーがあふれている感じに憧れを抱きました。ところが、都会に住んでみてわかったのですが、テクノロジーは私たちの暮らしを便利にする反面、人間と人間の関係、あるいは人間と自然の関係を単調化しがちです。あらゆることをテクノロジーに任せているうちに、私たちは人間的な自然との繋がりをつくらなくなっている。私たちは人や自然と繋がるチャンネルを持っていた。それを持ったまま都市になれなかったことが、人間と人間の関係に変化をもたらしたのではないでしょうか。
大学に進学すると周りはほぼ全員都会出身の人で、食や農に関心が薄くて、田植えとか代掻きという言葉を知らない人が多かった。なぜ都会の人は、自分が食べているものがどのようにしてできているかに関心がないのか。そういう思いから、食や農業をテーマとして歴史を研究する道へ進み、現在に至っています。
研究するなかで出会ったテーマがナチズムでした。ナチス支配下のドイツはご存知の通り600万人のユダヤ人をはじめとして、多くの人を殺害する前代未聞の暴力を繰り広げましたが、農業こそが国の中心だと訴えて、農村から得票を得たことが第一党になった理由のひとつでした。食料自給を目指して、農業生産力を上昇させたり、国産のものを食べようという政策も掲げたりしました。
ベトナム戦争で右手と視力を失った元ゲリラ、正しくは解放民族戦線の方とお話ししたことがあり、ベトナムの人々のしんどい歴史も学んできました。そのなかで、今日のテーマとも関係があるのは、ベトナム戦争で農民を苦しめたのが飛行機から除草剤を撒くという攻撃です。当時の最先端の化学テクノロジーで開発された農薬が武器になった歴史もたどってきました。
世界ではいまも農薬による暴力が繰り広げられています。イスラエルは2014年から2018年までガザ地区との緩衝地帯に、30回にわたって枯葉剤を撒いていたことが明らかになっています。毎回、風がガザ側に向かって吹いていました。そうすると、ガザの人々が緩衝地帯の近くで育てている野菜が枯れたり、汚染されたりする。ガザに送られる援助物資は炭水化物が多くて、タンパク質やビタミンが不足します。そうすると小麦をふんだんに食べていても飢餓になり、人間性を保つことができなくなる。ベトナム戦争と同じような形で農薬が人の生を殺すために使われていて、その暴力は、イスラエルの最先端の技術によってなされているわけです。
また、農薬と毒ガスには意外な関係があります。第一次世界大戦期にアメリカで大量に余った青酸ガスを綿花畑に撒いたことがあります。毒ガスが平和利用されて、農薬企業が発展しました。そこからつくられた薬品のひとつが、ユダヤ人を殺害したチクロンBです。技術が巨大化して、その中身がわからなくなるうちに善悪両方に使われるようになる。そういう時代に私たちは生きています。
これまでに16冊の本を書きました。給食の歴史や台所の歴史、品種改良の歴史、テクノロジーと人間、あるいは政治はどういうふうに繋がっているのか、そういう本です。そのなかに『分解の哲学』という哲学書があります。地球上に生きているものは、生態学では生産者producer、消費者comsumer、分解者decomposerに分けられるのですが、私たちはそのなかでもとりわけ分解者の存在を忘れがちです。ミミズとか微生物が死骸を分解して植物の栄養に変えないと循環が回らないのに、私たちは土や腸、海や川の中という微生物の宝庫に当たる場所をないがしろにしてきたのではないか、ということを論じています。
以上のような関心から、今日は「自然」をめぐってお話をしたいと思います。私は「自然で行こう」とか「自然体で」という言葉をよく使うんですが、現代史研究者としては非常に危ない言葉でもあると思っています。
ナチスという、非常に権威的で家父長的、男性中心主義的な政体においていちばん重要なキーワードが“Lebensgesetz”(生命法則)です。私たちは生命の法則に従属しているのだから、女性はどんどんこどもを産みなさい。遺伝学的にアーリア人種が優秀だという法則があるのなら、その人種を温存して他の人種を抹殺してもしようがない。生命や自然に逆らってはならない、ということがナチズムの重要なメッセージでした。
そう考えると、「自然」を賛美することは危険を伴っているわけです。遺伝子組み換え作物は自然ではないから食べない、という人たちも多いのですが、その「自然」とは何かという問いをもっと深く探究しないといけない。いわゆる「健常な人」が人間として自然だ、とナチスはいったのですが、私たちの「自然」賛美の中にそういう差別意識はないだろうか。自分を完璧なものとしてとらえると、そこに「自然」という言葉が入ってきますが、それはやはり危険です。
他方で、人間が開発した技術を使って人間と自然を同時に支配するという問題もあります。世界の人口は1950年ごろから激増してきました。凄まじい勢いで地球に負荷をかけたので「人新世」といわれています。こういう人口爆発の背景には、医療技術の進展とともに6つの農業技術の発展がありました。
1つはトラクターの登場で、機械の力で耕せるようになりました。2番目はハーバー=ボッシュ法という、空気中の窒素から肥料を大量生産する方法が開発されたこと。3番目は、合成農薬がつくられて害虫や除草が簡単にできるようになったこと。4番目は、1960年代に「緑の革命」と呼ばれた品種改良革命が起こって、単位面積あたりの収量が飛躍的に高い穀物を生産できるようになったこと。また大規模単作農業業の拡張。単作で小麦や米、カカオ、バナナなどを大量生産する農業です。しかし、同じ遺伝情報を持った植物を同じ場所でつくるので病気が流行る。病気が流行ると薬を撒く。今度はその薬に耐性のある病気が出てくる、というイタチごっこが続きます。最後に、大規模畜産の普及。例えば鶏肉の生産過程では感染病予防などのために抗生物質を餌に混ぜています。
この6つの農業技術は私たちの命を支えているといえますが、それには裏面があります。そのなかから、品種改良の歴史について話したいと思います。人間が狩猟・採集生活から、定住生活に移行すると野生の植物を選別して栽培するようになり、やがて稲や小麦の品種改良に成功します。農業を始めたこと自体が品種改良の始まりだったのです。
テクノロジーは社会と結びついて初めてテクノロジーとして効果をもたらします。1960年代の品種改良革命がそうだったのですが、特定の人間集団にとっての利益がプログラミングされたとき、それは特定の人間だけが利益を得るテクノロジーになります。その問題を、戦前・戦中の日本の稲の品種改良を例にとって論じていきたいと思います。
このグラフは大正時代から昭和初期の日本の米の生産量です。エンジ色の部分が日本本土で生産された米の量。オレンジは植民地化した朝鮮半島から日本に移入された米。そして黒いドットがやはり植民地だった台湾から移入された米。緑色のラインが日本本土で消費している米の量です。ここから日本本土の生産量だけでは人々の口は満たされなかったことがわかります。それを克服するために品種改良政策が始まります。そのきっかけとなったのが1918年の米騒動です。米価が一気に上がったので、富山だけでなく神戸、岡山、名古屋などの大都市でも民衆が暴動を起こしました。
品種改良で2つの有名な品種が開発されました。1つが「陸羽132号」で、これは秋田県で生まれました。もう1つが、北陸で江戸時代からあった品種を純系統化した「銀坊主」です。陸羽132号はよく売れたので、みんながつくり始めます。その結果、生態系的に合わないところでもつくるようになり、農家が困窮する事態にいたりました。テクノロジーは本来、理性の塊なのですが、ときにこうした「熱狂」を巻き起こしてしまいます。
日本は陸羽132号と銀坊主を朝鮮半島に移植しました。最先端の技術による品種が導入されたのですが、生産した米は日本本土に移入されたために、朝鮮半島の多くの農民が春になると飢えるという事態になってしまいました。そういう植民地を通じた暴力についても考えたいと思います。
テクノロジーは社会に不可逆的な影響を与えます。その最たるものが「蓬莱米」という、日本人が植民地・台湾で品種改良した米です。台湾の人が食べていたのはインディカ米でしたが、ジャポニカ米の一種である蓬萊米を台湾に導入し、日本本土の米の需要を賄おうとします。そのおかげで台湾の農民は現金収入が増えてかなり豊かになりました。ただ、蓬莱米を普及していく過程では農民たちが強く反対しています。新しい技術による品種への不安があったからです。その結果、鳳来米が普及しますが、実はインディカ米の生産量はあまり下がらなかった。
なぜかというと、台湾の農民たちは商品経済に慣れていて、自分たちはインディカ米を食べつつ、蓬萊米は日本向けの商品として売ろうとしたからです。蓬萊米は肥料を多く投入するほど生産量が上がるのですが、そのために肥料を買い続けるというスパイラルに入っていきます。その肥料は日本の肥料会社からの輸入が多い。ある品種を導入してしまうと同じ肥料を買い続けなければいけない。そういうふうに制度が「自然」化していき、それを支える技術がどこからきたのか忘れてしまう。これも植民地主義の大きな問題です。
現代のグローバル・フードシステムを砂時計にたとえたモデルがあります。ラジ・パテルというアメリカのフード・ジャーナリストが提唱したものです。このシステムの中心にいるのが巨大穀物商社で、全世界で収穫された穀物を砂時計のネックの部分に集めて、そこから全世界の消費者に売る。その過程で様々な仕掛けをして利益が一気に巨大穀物商社に入るようになっています。そうした巨大穀物商社が手を結んで推し進めたのが、1960年代の品種改良革命です。農薬や化学肥料を大量に生産できる先進国にとって都合のいい品種を、「世界から飢餓をなくす」という名目のもとに広めていきました。技術は確かに人々を飢えから救ったけれども、それは先進国の企業が儲かるシステムの中で使われた。これが、私が「制度の自然化」と呼んでいるものです。
(編集:西岡一正、写真:阪中隆文)
高度に都市化された渋谷周辺を舞台に食材や調理法を代替して作る「代替」料理を創作、実食可能な体験型パフォーマンス作品へ