代替屋

トーク「自然は可能か?」Part 2

アートプロジェクト「続・代替屋」を企画したアーティストの柴田祐輔さんとToken Art Centerが1月31日、歴史家・藤原辰史さんをゲストに迎えてトーク「自然は可能か?」を開催しました。そのPart2は、「食」をめぐって多彩な思考を披露した藤原さんの講演を受けたクロストークです。講演の熱気が冷めやらぬなか、柴田さんとToken Art Centerの秋葉大介さん、CCBTのテクニカルディレクター伊藤隆之さんが参加し、藤原さんとオンラインで語り合いました。

食について、私たちがいだく矛盾した自然観

秋葉 私たちは「続・代替屋」というプロジェクトを昨年10月から続けているんですが、昨年12月に渋谷の雑草を採取して栽培するというワークショップを行いました。スーパーで並んでいる野菜はほぼF1種という品種改良されたものであるのに対して、雑草は野菜の原種となるものが多くあります。現代においては、品種改良の先に遺伝子組み替え食物がありますが、人為的に操作されたという理由から警戒されています。一方で、F1種も無理な改良がなされているので、人為的という意味では違いはないとも考えられます。 私たちは、その自然由来の食物を求めながら、一方で本来不揃いであるはずの野菜に均質な形を求めたりする、矛盾した自然観みたいなものを持っているのではないか、というところがまず企画のスタート地点になりました。今回のクロストークでは、自然・反自然っていうキーワードを手がかりに、藤原さんのお話を考えつつ、食にまつわるテクノロジーについて議論できればと考えております。

柴田 藤原さんの本を読むたびに感動で興奮していく感じがするのですが、同じような感じが今日の講演にもありました。ぼくは遺伝子組み替えとか最新のテクノロジーと食の関係について、避けるべきものという先入観をもっていました。でも、推進派の本を読めばそうだよなと思うこともあります。その中で藤原さんの本を読むと、その問題を戦争や農業の歴史を踏まえながら論じられているので、説得力があって引き込まれるんです。そして、遺伝子組み換えなどのテクノロジーが資本主義の流れに繰り込まれて、いま私たちがスーパーに入って食品を選ぶところにまでしっかり繋がっているという、驚き感じるわけです。

在来種の野菜を食べたら、体が驚いた

柴田 いまはフードシステムがグローバル化し、ブラックボックスになっています。自分たちが食べているものの生産者の顔が見えないだけでなく、どこから来て、どのように加工されているのかもわからない。そこには遺伝子組み換え食品が含まれているかもしれない。食べ物を自分が選択しているようで、実は選択権がないような感じで、食べていることにリアリティーがない、という「不自然」な世界になっています。一方、そのなかでスローフードとか有機農法に「自然さ」を求める動きもある。ぼくはそれにも違和感を覚えます。最近、固定種や在来種だけをつくっている農家の人参をいただいたのですが、スーパーで売っているF1種の人参とはまったく別物でした。体がグワッとなるような美味しさに驚きながら、「自然/不自然」という感覚はどこから来るのかを藤原さんと話したいと思いました。それで、今日は「自然は可能か?」というちょっと壮大過ぎるテーマを設けました。

伊藤 ぼくはもともと技術系の人なので、テクノロジーに対しては結構オプティミスティックなんです。遺伝子組み換え技術については、ぼくも最初は疑問があったんですけど、科学者の人と話したときに、遺伝子組み換え技術を単体で見れば、それは自然のなかで起こっていることだといわれました。品種改良のなかでも基本的には同じことをやっている、と。さらにいうならば、自然界で起こっていることは基本的にランダムだから、管理されたなかのほうが毒性のないものをつくれるはずだ、と僕がお話を伺った科学者の方はいっていました。藤原さんのお話を聞いて思ったのは、そもそも国や集団によってその技術を実現できる・できない、という非対称性が人間の社会にはある。技術がどうのこうのとは、全然別のレイヤーで大問題がある。勉強しなければいけないなと思いながらお聞きしていました。

柴田 テクノロジーはしばしば戦争に利用されますね。遺伝子組み換え技術も「種を制する者は世界を制す」といわれますが、大企業の利益のために使われてるという面があります。考えていくと、テクノロジーは人間を不幸にしてるだけじゃないかと思ったりします。品種改良とか遺伝子組み替えで野菜を食べやすくしたり、病気に強くしたりしていますが、その一方で、野菜の栄養価は雑草 の3分の1だともいわれています。そのうえ大量生産が大量廃棄につながっている。テクノロジーは食に貢献できないんだろうか とも思います。先生ってどういうふうに考えられていますか。

オルタナティブ・テクノロジーの可能性

藤原 いろいろな種類のテクノロジーが束となって、ネットワークとしてわたしたちの目の前に現れているものとするならば、悪意のある人間がそれを自分の利益のために使うだけではなくて、社会的に差別を受けている人や、苦しい思いをしているけれど認めてもらえない人たちも、テクノロジーを使って自分たちの生をもっと豊かにすることができるはずです。問題はスポンサーだと思います。あるスポンサーがついて巨大なお金が投じられると、それに応じたテクノロジーができてしまいます。自己批判を込めていいますが、国立大学の研究は国家がスポンサーなので、例えば国が軍事のため技術を発展させると決めてしまうと、私たち研究者は逆らいづらくなる。でも、レジスタンステクノロジーあるいはオルタナティブテクノロジーといったものも考えられるはずです。しかしそういうもののためにお金が投じられてはいません。

ロブ・ダンというアメリカの経済学者が『世界からバナナがなくなる前に』という本で論じているのですが、益虫を使って害虫を制するテクノロジーがある。しかしスポンサーいなかった。なぜなら従来のスポンサーは国家も企業も含めて、すべからく化学研究へのスポンサーだったからです。そうではなくて、いろいろなアイデアを使ったオルタティブなテクノロジーにみんながお金を投じれば発展していたのでは、と論じています。

柴田 国や企業以外のところからの資金調達で研究が行われた事例はあるんですか。

藤原 ロブ・ダンの場合は、どういう意味があるかを説得しながら、一人ひとり口説いていくしかなかったようです。今ならクラウドファンディングという方法もあって、徐々にやりやすくなってはいるのかなとは思います。

秋葉 事前に「自然と人間を接続させる方向に働くテクノロジーはあるのか」と考えていたので、オルタナティブテクノロジーという言葉が気になります。例えば品種改良は、人間が育てやすい・食べやすいように動植物を改造することで、人間と自然の二項対立を前提としている。テクノロジーは自然が変化するために本来必要だった時間を省いて、効率的にやってしまうから、二項対立の溝をどんどん広げてしまうんじゃないでしょうか。でも、オルタナティブテクノロジーとかレジスタンステクノロジーには、勇気づけられる感じがします。

「修理のテクノロジー」が心の安全を保つ

藤原 『分解の哲学』で書いたんですけれども、これだけテクノロジーが発達しているのに、なんでこれが不可能なんだろうか、ということを思い出せばいいんです。例えばパソコンが壊れたときに、これ修理所に持っていくとその場ですぐに直してくれるテクノロジーがあるべきだ、と。もっと楽しく修理できるテクノロジーとか、私たちが参加できるテクノロジーです。修理を巡る知の体系というのは複雑かつ面白いんです。

イタリアの事例を紹介します。1920年代、ドイツ人の哲学者が ナポリで休暇を過ごしていたら、オンボロの車を走らせている人がたくさんいる。ぼろい車に仕方なく乗っていると最初は感じていたけれど、よく見るとむちゃくちゃ楽しんでいる。でも、きっと壊れるだろうと思って見ていたら、目の前で壊れた。どう修理するのかと思っていたら、乗っていた人が周りに声をかけたり、あるいは前の車の人が勝手に寄ってきて、そこにあるもので修理をして、そしてまた走っていったというんです。

秋葉さんがおっしゃったことと深く関わるんですけど、 テクノロジーは高度であればあるほど本来的に人間と人間の関係を切ってしまうことが多い。その哲学者が修理の過程を見て、修理しやすく壊れやすい車をわざと乗っている理由は、人と人との関係、その車を乗り続けられるテクノロジーのネットワークじゃないか、ということに気づくわけです。それを引用した松嶋健さんという人類学者の 『プシコ・ナウティカ―イタリア精神医療の人類学』という名著があるんですが、イタリアでは、わざとテクノロジーがうまくいかないようにしてる面もあるんじゃないか。そうしないと人間関係がブチブチと切れてしまうから。

腕のいい職人さんたちが一人で1台をつくるような車がかつてあった。それやっぱりいまの車よりも故障しやすいかもしれないけれど、しかし個々の職人さんの癖が出ている。さきほどの哲学者がみていたのは、そういうものを持っていないと落ち着かない人たちなんですね。例えば、日本の車は壊れにくくて安心安全です。車は人の命を奪うものでもあるので、安全なほうがいいに決まってる。私もそう思います。しかし、どっちが人間たちが生きていく上で心の問題も含めて安全かというと、いろんな人が自分を頼ってくれるし、自分も頼れるという状況のなかに生まれるテクノロジーの方がよっぽど人を守ってくれるじゃないか、ならば、いろいろな人が関係を切らないままで、技術がパーソナライズされないで、事故が極力少ないテクノロジーというものもありうるのではないか、という議論をしてるんです。

伊藤 余談ですけど、私の父親が家電の修理工だったんです。家には謎にテレビは5台あったし、子どもの頃にパソコンをもらったんですけど、それは壊れたパソコンの壊れてないパーツを集めてつくってくれたんです。近所の人も直してもらいに来たりしていました。直すことは人間関係を包み込むんですね。

「漏れる技術」がフードロスをなくす

柴田 いまのフードシステムのいちばん大きな問題は大量生産と大量消費、大量廃棄だと思っています。飽食と飢餓が同居する不均衡な世界で、そこに不自然さを感じます。そのなかで私たちの幸福や未来に寄与できる、修理のテクノロジーのようなものはあるんでしょうか。

藤原 食べ物を大量に廃棄してしまうひとつの理由は、パッケージになっていて、消費期限が設定されていることです。消費期限を超えるとパッケージのまま捨ててしまう。そこでプラスチックを生分解可能にしようとか、余った食べ物は堆肥化しよう、という技術が考案されるのですが、私はフードロスという問いの立て方自体を一から考えなければいけないと思っています。

例えば田舎に住んでいると、特にお客が来たときとかに、食べ物がたくさん残るんです。ただ、その後がちょっと違う。いろいろな家畜がいるので、残った食べ物は動物が食べる。その動物をやがて私たちが食べるような循環がある。人間と自然、動物や植物を含めたグループのなかで、残った食べ物はなくなっていきます。これがフードロスという問題系が出る前に普通だったわけです。テクノロジーは、科学技術だから当然ですが、枠をつくって、その枠の中でいかに効率的にその効果が全うされるかという方向に行きます。もう少し開放系の技術、いわば「漏れる技術」のようなものを考えてもいいんじゃないでしょうか。

19世紀から続く「分業経済」の根底にあるものは

柴田 ぼくたちはいま、雑草を渋谷の特産野菜と捉えて栽培していて、渋谷の施設などに雑草を植えたプランナーを置かせてもらっています。ある商店街の会長にお願いをしたところ、厳しい批判の言葉をいただきました。「食べ物は全部田舎に任せとけばいい。分業があるから渋谷は街として機能するんだ」と。そうした分業で自分の食べ物を他人に任せるということについて、どう考えられますか。

藤原 分業が経済発展を支えてきたとは思うんです。そのおかげでより効率的に商品が作れるようになった。世界中が仲良く適材適所でやっていこう、という幻想も含みながら、分業論が唱えられている。でも、いまは根源的なところで分業は批判されています。それはジェンダーです。19世紀経済学のひとつのキーワードである分業は、その根源には男女役割分担がありました。男は外で働く、女は家事をするという分業があるからこそ、ケアを女性に無償でやってもらった分の利益で経済を回していけるという、男性的な経済が出現しました。その結果、例えばいまの労働管理体制は女性の生理を前提にしていない。渋谷で雑草を育てて食べてみようという試みは、この分業観を根底から批判することになると思います。

秋葉 人文系の人間ではものごとを全体で捉えることを前提としていますが、 伊藤さんはエンジニア・技術者なので、分業に対する考え方はぼくらとは違う部分があるのではないかと思うんですが、いかがでしょうか。

伊藤 分業すれば明らかに効率が上がることが多いので、それは前提としてあります。ただ、人間がある機能だけに特化した場合にどうなるのか。例えば、自分がものづくりとするとき、やはりある程度全体像を捉えて制作しないと、柔軟性に欠けるものができてしまうことが多いという印象を持っています。

人間相互の「信頼」が新しい世界を開く

柴田 F1種とか遺伝子組み替えは、効率よく大量生産するための技術です。藤原さんの本に、そこからこぼれ落ちる側の視点から効率を見ているような、スタンスをぼくは感じています。今回の雑草や昆虫を食べるワークショップも、都市のシステムからこぼれる側から都市を見つめてみるという試みです。効率との対峙の仕方についてうかがいたいと思います。

藤原 私は効率がいいことは結構好きなんです。自分の仕事でも効率的にはまると嬉しかったりするし。ただ、「漏れない効率」化を求めていくと、逆に非効率になると思っています。人類学者のデイビット・グレーバーが『ブルシット・ジョブ』で書いていますが、世の中をできるだけ効率化しようと統治の技術を高めた結果が、いまの官僚制です。官僚制は人を信頼しないシステムなので、誰かが外にはみ出ないように監視する仕事が出てきた。誰かが裏切ることを事前に防ぐテクノロジーも必要になってきた。「漏れ」をなくするために必要になる、どうでもいいような仕事がどんどん増えていって、結局、効率性をダメにしているところがあると思います。本当に効率的な世界を求めるなら目指せばいい。そうすれば必然的に人間相互の「信頼」が前面に出てきます。その信頼モデルからずれた人だけを問題にすればいいんだと、私は考えます。

柴田 効率化という問題の解決策として、「信頼」という言葉は初めて聞きました。いま腑に落ちたところがあります。

伊藤 余談ですけど、『ティール組織』という本があって、Netflixとかパタゴニアとかが事例に上がっていたんですけど、組織を信頼できる8人程度の少人数のチームに分けて、予算の決済権とかも全部持たせて、効率的な運営を目指しているというようなことが書いてありました。

藤原 結局ブルシット・ジョブというのは、例えば弁護士事務所で、 裁判のためにたくさん資料を読んだことを見せるためだけに論文を大量にコピーをするような仕事です。弁護士が信頼されてさえいれば、そんな仕事は必要ないんです。例えば、家庭内でご飯を作るときに、この人は毒を入れるかもしれないから、あるいは黴菌があるかもしれないから、手のひらを出してください。まずチェックします、とかいっていたら、いつまでたっても料理はできない。それと同じことが世界の官僚制のなかで起こっています。

秋葉 「信頼が」新しい世界つくる、ということですね。希望が感じられる素晴らしいお話をうかがうことができました。今日は本当にありがとうございました。

(編集:西岡一正、写真:阪中隆文)

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